創業1912年の帽子メーカー・株式会社サトーが取り組む、ものづくりを未来へつなぐ職場づくり/企業インタビューvol.3
取材・文:堀合俊博 写真・編集:丹青ヒューマネット
公開日:2025/9/26
2025年度の新卒社員を対象とした丹青ヒューマネットの社員研修では、東京都台東区にて帽子の製造をおこなう株式会社サトー様にご協力いただき、同社のオフィスの内装工事の現場研修をおこないました。1912年創業の同社は、さまざまなブランドやアパレルメーカーとのOEM事業に加え、2023年にがん患者向けの帽子ブランド「CHANVRE MAKI」を立ち上げ、課題解決のための帽子づくりを実践されています。ご自身も舌癌を経験され、家業の継続のために日々奮闘されている4代目社長の佐藤麻季子さんに、事業継承やブランド立ち上げまでの経緯、より良いものづくりを続けていくための職場づくりについてのお考えを伺いました。
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創業1912年の帽子メーカー・株式会社サトーが取り組む、ものづくりを未来へつなぐ職場づくり/企業インタビュー vol.3
100年続く家業を引き継ぎ、自社ブランドの立ち上げへ
──佐藤さんが事業を引き継がれるまでの経緯をお聞かせください。
株式会社サトーは1912年に曽祖父が立ち上げた会社で、当時はここで10代の方が住み込みの丁稚奉公として帽子をつくっていました。昭和に入り、父が社長を務めていた頃に自社工場を福島に建て、職人さんたちと一緒に帽子をつくってきたのですが、東日本大震災で工場を失ってしまったんです。
当時の私は、前職の会社で印刷機の営業や化粧品の販促をしていて、会社がどのような状況かを詳しく知らなかったのですが、事業の継続に奮闘する父の姿を見て、「100年続いている事業が途絶えてしまうのはもったいない」と感じたんです。その後に会社を辞め、事業を引き継ぐことを決意しました。
ところが、蓋を開けてみたら驚くことばかりでした。まさか曽祖父の時代から仕事を続けている70代の職人さんが、いまも帽子をつくっているなんて想像もしていませんでした。さすがにこれでは事業の未来が危ういと思い、国内の地方の工場を訪問して仕事を請け負ってもらえるように依頼したり、海外の生産数を伸ばすために、海外の工場を探し歩いたりしました。現在の和歌山工場は、廃業を検討されていることを知ってお声がけしたことがきっかけで自社工場化したものです。
しかし、その半年後にコロナ禍に入ったことで収入が途絶え、ふたたび窮地に追い込まれてしまいました。そこで「自分たちでブランドを立ち上げよう」と、2023年にがん患者さん向けのブランド「CHANVRE MAKI(以下、シャンヴルマキ)」を設立しました。
──「シャンヴルマキ」のWEBサイトでは、佐藤さんご自身ががんになられた経験について綴られています。当時はどのような状況だったのでしょうか?
ブランドの立ち上げを決意した1か月後、私自身が舌癌に罹ってしまいました。2度の手術を経験し、一時は話すことができず、食べられない期間もありましたが、お客様に病気のことは伏せていました。ちょうどコロナ禍で直接お会いすることが減っていたからというのもありましたが、30代でがんに罹ってしまったことで、みなさんに心配をおかけしてしまうだろうと思い、なんとか隠しながら仕事を続けていました。
お客様から寄せられた「生きる勇気が湧きました」の声
──がん患者さんのための帽子を作る発想はどこから生まれたのでしょうか?
以前から、入院中の患者さん向けのニット帽をOEMで製造していたんです。現在は医学の進歩で通院しながらがんの治療ができるようになりましたが、ニット帽では仕事に行けないですし、あうお洋服が限られてしまいますよね。そこで、社会生活と治療が両立できる帽子をつくりたいと思ったことが、ブランドを立ち上げるきっかけとなりました。
製品開発においては、抗がん剤治療で髪の毛が抜けてしまった親族に実際に試作品を使ってもらい、被り心地やサイズ感などのデザインに落とし込んでいきました。さらに、ネットの口コミ等を調べ、明らかになった課題を解決するための帽子を考えていったんです。
例えば、髪を失うと頭の大きさは2cmほど小さくなってしまうので、その分サイズ合わせが必要です。また、汗が垂れやすいため、下着のように汗を吸収する機能を加えました。さらに、地肌に直接触れる状態で帽子を被るので、保湿成分であるセラミドを含有した繊維をオリジナルで開発しました。私自身、アトピーでとても苦労していた時期があり、前職で扱っていたセラミドが配合された化粧品で肌がよくなった経験があったことも活かしています。
──ブランドを立ち上げたことで会社にどのような変化がありましたか?
会社に対する周囲の見方が変わったと思います。「ただ、ものをつくっている会社じゃない」と。OEMでは、エンドユーザーの方々が、私たちがつくった帽子を選んでくれる理由がわからなかったのですが、ブランドを立ち上げたことで、直接お客様からご連絡をいただくようになりました。私たちの帽子の評価を伝えてくださるので、次の製品を作るときに活かすことができています。エンドユーザーの声があってこそ良いものづくりを続けていくことができるんだなと、ブランドをつくったことではじめてわかりました。
あるときお客様から「生きる勇気が湧きました」と言っていただいたときには、思わず震えてしまいましたね。髪が抜けて外出をする気になれず、人生をあきらめかけてしまっていた方が、私たちの帽子のおかげで外に出られるようになったそうなのです。これまで自分が作る帽子が誰かの人生に影響を与えるなんて思ってもいなかったので、何よりの活力になりました。
いただいた声はすぐに共有するようにしているので、社員にとっても大きな変化だったのではないでしょうか。自分たちが作るものへの責任感がさらに生まれたんじゃないかなと思います。
ものづくりの街に生まれて、製造業を続けていくこと
──社員のみなさんはどのような働き方をされていますか?
私たちは東京本社に6名、和歌山の工場で7名が働いている小さな会社で、社員の多くは自転車で通える距離に住んでいる女性です。子育てをしている女性にとって、働く時間は子どもの成長によって変わると思うので、ここでは好きな時間や曜日を選んで働けるように、自分たちでシフトを組んでもらっています。子どもたちが帰ってくる時間と退勤時間を合わせたり、夏休み期間中に早めに帰れるようにしたり等、なるべく希望をかなえるようにしています。
──ここでは主にどのような作業をされているのでしょうか。
製造は和歌山工場が担っているので、東京本社では事務作業のほかに、海外から届いたものの検品や、二次加工と出荷作業をおこなっています。例えば、帽子の頭の部分だけを中国やタイ等の現地の天然素材で編み、つばの部分だけを日本でつくって合体させる等、海外製と日本製の良さをそれぞれかけ合わせた帽子づくりをしています。
この業界では、キャップやニットといった帽子の種類ごとに分業化されていて、すべての種類の帽子が製造できる工場は世界にひとつもないんです。私たちのような小さな会社はひとつの種類だけではなかなか厳しいので、さまざまな種類の製造を請け負うようにしています。ブランドからご依頼いただく仕事の中には、当初は手編みの帽子の企画だったものが、途中でうまくいかずに他の素材に切り替わることもあるんです。そういった場合にも対応できる受け皿の広さを持つために、布帛(ふはく)と天然素材を組み合わせたり、海外の素材と日本の職人の技術をかけ合わせたりと、幅広い選択肢を持つようにしています。
──日本の職人さんの技術が活かされた製品はいまだに多いのでしょうか?
やはり減ってきてしまっています。職人さんだから作ることができた帽子の企画が、かつてはもっとたくさんあったと思います。同じパターンでも、縫う職人さんによって味わいや雰囲気が異なるものが仕上がりますし、人の手でないとつくれない、決して機械化されない技術だと思ってはいます。
──貴社の拠点である台東区は、ものづくりの街としての歴史があることで知られていますが、産業状況の変化を感じることはありますか?
昔は石を投げれば帽子屋に当たるくらい(笑)、このあたり一帯に何十社と帽子屋さんがありました。私が小学生の頃は、同じクラスの友だちのお父さんは、タオル屋さんやスリッパ屋さんなど、何かしらものづくりの仕事をしていました。当時はサラリーマンという働き方すら知らなくて、私立の中学校に進学した時に「みんなのおうちは何屋さんなの?」って聞いたら、同級生にきょとんとされてしまって(笑)。それがいまや10社も残っていない状況になってしまい、同業者や仕入れ先もどんどん減ってきています。父の代から私たちのことを知ってくれている近所の方から「頑張ってね」と言われることもあります。材料を仕入れることができなくなれば、ものを作ることもできなくなってしまうので、このままでは産業が続かないのではないかという危機感もあります。
遠慮しがちな社員たちを引き上げるコミュニケーション
──社内のコミュニケーションについて心がけていることはありますか?
小さな会社なので、風通しのいいコミュニケーションが生まれる職場づくりを心がけています。そうすることで、自然と仕事へ前向きに取り組めると思うので、それだけはかならず意識しています。私が何を考えているのかがわからない状態だと、社員が気を遣わなくてはならなくなりますよね。なので、「なんだか今日は眠い」「今日は早く帰りたい」といったことを自分から言うようにしているんです(笑)。すると、「社長が眠いなんてことあるんですか?」と驚かれるんですけど、もちろんありますよ!と(笑)。私がまるでバイタリティの塊のように見えているようなんですが、そんなことはまったくないんです。大切なのは、常にコミュニケーションを取りながら、お互い意見を言い合えるような環境を用意することだと思っています。
──社長に就任された当初、振る舞い方等を悩んだ時期はありましたか?
それはありましたね。入社して1年後の31歳で社長になったので、社員はみな私より年上でしたし、銀行やお客様の企業の社長さんたちとの付き合い方や接し方がわからず、体裁だけは整えようと背伸びをしてしまっていたと思います。当時は余裕がなかったので、ビジネス書に書かれているような格好や振る舞いをしてしまっていました。そのせいで離れてしまった社員もいたと思います。
──そこから変化されたきっかけは?
やはり、一番のきっかけはがんを経験したことです。コロナ禍で工場を失い、追い討ちをかけるように病気になってしまった時、助けてくれたのは社員でした。がんを宣告されて会社に帰ってきた日に、社員の顔を見たらもう大号泣してしまって。社員たちも一緒に泣いてくれて、その時に自分はみんなのことを家族のように思っていたのだと気づきました。
──社員が働きがいを感じることができる工夫や取り組みはありますか?
大手企業とは違い、裁量権が大きいことが少人数の会社の良さです。自分の意見を通しやすい、規模ならではのメリットを感じてもらえるようにしたいと思っています。ここではなんでも自分たちの好きにできますし、組織化された企業で育った身からすると、こんなに自由な環境はそう多くないでしょうか。
ただ、しっかり働いた経験がないまま子育てをされてきた社員が多いため、何かと遠慮してしまいがちなんです。だからこそ、できるだけ社員を引き上げていくような投げかけをするように意識しています。現在は帽子の企画は私が主導していますが、いずれは社員にも企画に入ってもらえるようになると良いと思っています。
また、仕上げや二次加工といった帽子づくりの作業に加えて、ブランドのお客様の対応といった幅広い仕事も担当してもらっています。最初は仕事が多く感じられるかもしれないですが、その分すべての仕事がつながっていることが実感できる働き方なのではないかと思います。お客様からの声を直接聞くことで、次に帽子を作るときにどんなことに気を遣えばいいのかがわかりますし、より被りやすいように仕上げたいという気持ちも自然に生まれます。その結果、いままでクレームや、返品交換も一切ないんです。それこそがうまくいっている証拠だと、社員に伝えています。
──最後に、今後取り組んでいきたいことをお聞かせください。
シャンヴルマキでは、今後も引き続き課題を解決する帽子をつくっていきたいと思います。例えば紫外線アレルギーの方に向けた、紫外線を100%カットできる帽子など、さまざまな切り口の製品づくりを通してブランドを展開していきたいです。
さらに、去年1度だけ開催することができた、がん患者さんとお話しをしながら、生活の中でどんな帽子が必要なのかをお聞きする「帽子カフェ」の活動にも力を入れていきたいと思っています。自分たちが作るブランドだからこそ、そういった販売会とは違う場づくりにも取り組んでいきたいです。もともとこのブランドは、隔たりのない世界を実現したいという思いではじめたものなので、病気の方に限らず、すべての人にとっての課題を解決する製品をつくっていきたいと思います。
取材を終えて
佐藤社長とは、丹青社蕎麦打ち倶楽部の先生であるお母様より、『うちの社長が展示会に出たいって言っているから聞いてあげて欲しいのよ』と企画をまとめたお手紙をいただき、お電話を差し上げたのが最初の出会いでした。
展示会は、グループ会社の丹青ディスプレイで対応いただき『うちの社長が喜んでいたわ、ありがとう。』とお母様から伺いました。その他、お母様のご自宅の改装に丹青社の取り組み”4earth”の建材を多く採用していただくなど、丹青社グループへのご理解も高まる中、昨年の新人研修カリキュラムのお話をお母様にした際に『うちの社長に話してみるわ…』と佐藤社長に伝わり、即OKをいただきました。
コラム内にあります、佐藤社長が勤め先をお辞めになり、事業を引き継ぐ決意をされたこと、社長になるといってくれたお話も、お母様から伺っておりました。『うちの社長がね…』というフレーズは、お母様の「幸甚の至り」からくる言葉だったのだなとインタビューも拝見し確信いたしました。そして、今年もまた”素敵な社長”に出会えた喜びも増しました。
ここに教育カリキュラム現場研修の「場」のご提供の御礼と共に、貴社が今後120年、150年と事業が継続されることをお祈りいたします。当社も負けずに人材育成を継続して参ります。引き続きよろしくお願い致します。そして『うちの社長が、改装したいって言っているのよ』のご一報を今後もお待ち申しております。
ありがとうございました。
株式会社丹青ヒューマネット
堀内 秀治
——COMPANY PROFILE
1912年(明治45年)創業、東京都浅草橋発の老舗帽子メーカー。
紳士帽から婦人帽、OEM・ODMや輸出入へと展開を広げ、震災で福島工場を閉鎖後は和歌山工場を事業譲受し国内製造を継続。
かねて構想していた医療用ファッション帽子ブランド「CHANVRE MAKI(シャンヴルマキ)」は、代表が立ち上げを決意した矢先に自身の病を経験し、想いをより強くして誕生。
113年目の今も帽子を通じて新たな価値を創造しています。
> 株式会社サトー

丹青ヒューマネット新人研修2025「考える習慣を育む、空間づくりの実践と学び」
創業1912年の帽子メーカー・株式会社サトーが取り組む、ものづくりを未来へつなぐ職場づくり/企業インタビュー vol.3
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